「弱者」でも「強者」でもない!
最近、「多様性」という概念、ワードが、若干暴走してる感じがする。
「弱者」を守ることが正義なのだ!と言うのはわからなくもない
がだからと言って、大多数の弱者に当てはまらないであろう人々の不満、ストレス、生活苦を黙殺していいとかと言えば、やはりちょっと違うのではないか?と感じる。
おそらくは、これらの発信者側に当たるマスコミの人々が、
かなり恵まれた層、要するに「強者」であることに関係がしてるのではないかと、
どうしてもそう感じる。
今やもう「マイノリティ特権」みたいなものさえ一部の人間は感じ始めているからだ。
そもそも、マイノリティだろうがなかろうが、生きてりゃ色々ある。
そりゃいろいろある。
鈍感な人とか運のいい人、てのはあるだろうけど。
自分の辛さがわからないように、相手の辛さなどは、まぁまず誰しも正確にはわからんものです。
「あなたにはわからない」
を言い出したらキリがないんですよ。本当に。
そして同時に、金持ちだろうがなかろうが子供がいようがいなかろうが発達障害だろうがそうでなかろう死にそうだろうがなんだろうが、
誰しも、ひとりでは生きられない。
そういう意味では、誰しもが誰かの世話になっていて
皆、支え合って生きている。
だから、別にマイノリティだろうが障害者だろうが
支えない道理はない。
助けたいって思う。
そりゃ
誰だって「人間的」でいたいもの。
しかし飢えてちゃ話にならない。
人間的でいるためには、どうしたって「余裕」が必要なのだ。
美味しいご飯に暖かい家庭があると、だいたいみんな笑顔になる。親切になる。
元々の生まれつきのタイプにより、その「余裕」の質や認識においてはかなり差があるのも事実だろうし。どんなに満たされようが根本的に意地悪だったり利己的な人もいるだろう。それはわかる。
しかしそれでも
多かれ少なかれ、誰でも、
人間的でいるためには「余裕」が必要なのだ。
「余裕」の維持には「コスト」がかかる。
その「コスト」は誰が払うのだろうか?
なんだよそれ、て思う人もいるかもしれない。自分で稼いでるよ、て即答して終わりな人が多いのかもしれない。
実際、大部分はその通りだろう。自分で頑張って、努力して稼いで、自分の余裕を生むものだろう。
だけどこんなの、ちょっと想像を膨らましてみればわかるはず。
自分だけでは絶対に払いきれやしないことを。
私たちが想定しているであろう当たり前の最低限の「文化的生活」は、
果たして誰のおかげで、維持できているのか?
汚い仕事、人権もクソもないリスキーな生活
それらの「コスト」を丸投げして、
「強者」は平気で言う。
「弱者」を排除してはならないと。
優しく親切に寛容にならねばならぬと。
まるで絶対的正義のように「多様性」を謳う。
特に強者でもない大多数の普通枠にいれられるであろう人は、
「強者」からも「弱者」からも責められている
そう感じている人間は少なくないのではないだろうか?
「弱者」になれるほどの特別なソレもなく、
ただ今日を消費していくしかない。
今日のストレスも今日消費するしかない。
不満を口にしてはいけない。どこで監視されてるかわからない。
「弱者」には優しくしないと、社会的制裁で殺されてしまう・・・
「強者」はもっと知るべきだ
いま、日常に疲れてる人がたくさんいることを。
私たちは疲れている。
それなのに、いやそれゆえか?
強い不安に駆られている。
差別はなくしたい。ヘイトも聞きたくない。
ただとにかく、
私たちは、それ以前に疲れているのだ。
先が見えない疲れを抱えているのだ。
それなのに、要求ばかりされる。
怒りたくない。
優しくなりたい。
そのためにもう少し「余裕」が欲しい。