Madam toad's blog

オカシイのは私ではなく、この世界。

「境界」が好きだ。

私みたいに入り口はミクロだった奴がマクロでやり直して、交雑の問題をやってたかと思えば繁殖生態やって、今度は行動だの血縁認識だのなんてやってると...、いくら材料に一貫性があっても、何がしたいとかもなく”ただのカエル好きな女”くらいに映ってもしかたないだろう。

 

だけど、これでも一応、自分にもそれなりに考えはあって、やりたいことを手当たり次第してるわけでは決してない。というつもりである。

 

それどころか、これでも絞りに絞ってるつもりだ。本当はもっと色々やりたいもの。もともと好奇心強いから。

 

でもできない。ちょっと手を出してみても結果が出てなくて道半ばで断念したりもあるし。もともとマルチタスクが苦手というのもあるし。体力的・金銭的問題も大きい。ただ、ほとんどは時間の問題と言える。

 

時間って意外なほどなくて。その、どんどん過ぎてっちゃうんで困っている。

 

なので最近の自分にとっては、「何をするか」よりも「何をやらないか」の方がよっぽど重要になった。そしてその選択には今もしょっ中悩まされてる。

 

 

自分は研究を通して何を追求したいのか?

今着手してるテーマは、私の「生涯テーマ」に向かっているのか?沿っているのか?

 

プロとしてやってくのならこれらは常に意識したい。

 

自然には不思議がいっぱいすぎるので、テーマを絞るのはたやすい事ではない。

あと、生物学って広すぎるので、一口に生物学者といっても、その人が何を目的に研究してるのかは、よく話してみないとわからないことが多い。

ざっくりいえばミクロとマクロとでは研究文化から何からかなり差があるのだけど、ここでその詳細を語るのは意味がないのでやめておく。

 

また私自身は「研究哲学」を持っていたい派だけど、一方で全く気にしない人もいる。これはまぁ性格だろうから、何が正解というのもないのだろうけど。

だけど、それでも私にはやはり「譲れないもの」がある。何事も、取組むとなったら拘るタイプだし。だから、つまりそういう性格なのだ。

 

 

 

私が初めて学問としての生物学に興味を抱いたのは、おそらく中学生の時。

いや正確にうと、学問として意識したのでなく、「疑問」を抱いた原点。

 

今に至る「なぜ?」を遡ると、確かにその時の自分にたどり着く。

中学理科の教科書に単細胞生物の紹介としてアメーバが出てきた時。

その日、寝る前に布団の中で妄想していた。教科書に出てきたアメーバの姿を思い浮かべ、細胞分裂細胞分裂!分裂!分裂!増える〜!増える〜〜!・・・

 

『あれ!?アメーバの「自分」はどこ行っちゃうんだろ!?』

 

その時どうしてそう思ったのか、よく覚えていない。何年も思い出さなかったし、大人になっても「思い出」として思い出す程度だったから。

 

大学院生になってからは、目の前のテーマに向かうので精一杯で、研究者になれるかどうかもわからなかったし、とにかく、一度どっぷり研究してみたかったから、これが人生最初で最後のチャンスだろう、て。必死なだけだった。

 

博士論文をまとめ上げた頃、自分の「問い」、要するに「生涯テーマ」について見つめ直すにあたり、そもそもなぜ生物学の道に進みたいと思ったのか、久しぶりに遡ってみた。

すると、中学生当時の私が抱いた「疑問」は、今もまだ生きた「疑問」なのだと気がついた。

もちろん、今私がいる分野は、細胞とか分子生物学ではなく、進化生態と言うマクロ分野になるので、直接的には関係ない。

だけど、自分は何を追ってるのか?

 

何を記述したいのか?

 

自分は、自分が「物」について拘ってるわけではないことや、ひとつひとつのメカニズムについて固執しているわけではないことを知っている。

 

生き物の世界は、多様性の世界。

 

だけど、法則性がないわけではない。多様性に富んでいるけど、共通性もあるのだ。代表的なところでいえば、情報の本体がDNAとかね。

 

星元紀先生の言葉を借りれば、『一様にして多様』。まさにそうだと思う。

 

そんな中で、自分はシステムの「内」と「外」に興味がある。

 

そしてその「境界」が好きだ。

 

分岐とか分断も好きだ。時系列を追ってメカニズムが知りたい。

生物システムは階層性があるので、どの階層を扱うかで分野も限定されてきたりするけど。自分はやっぱり生き物好きだし、個体としての振る舞いを観察するのが好きなので。個体〜集団レベルを扱い続けたいと思う。

 

 

「他人(他者)とはなんなのか」

 

そういう疑問は人生のテーマのように、自分の中にずっとある。

これは「自分(自己)とは何か」という問いと隣り合わせだけど。

 

私は、「個体」というものの定義づけそのものにもずっと疑問を持っていて、「社会性」や「意思決定」という問題を扱い出してから、その気持ちはますます強くなっている。

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人生は短いし、研究キャリアのスタートが遅い自分にとって、研究できる時間は本当に短い。好きなことを好きなようにできる時間は、もう残り少ないと思う。

 

だから具体的にどこまで迫れるかはわからないし。ひとつひとつの実験で得たデータをなんとか小出しに論文化できたとしても、大きな意味での、つまり「生涯テーマに迫るような成果」は、何も出ないかもしれない。

 

それでも、ブレないのが最も重要なことではないだろうか。最近よくそう思う。

 

時間がないからこそ、体力が足りないからこそ、私は私の中にずっと横たわり続ける「疑問」に正直でいたい。

 

 

「問い」とは、もらうものではく、出会うものだ。

  

元ネタ(誰かの言葉だと思う)は忘れたけど、私もそう思う。

 

現代は結果を常に求められる社会で、とにかくゆっくりできない。だけど、自分の足で歩き続けないと、自分の研究テーマ、「問い」には、決して出会えない。そこをサボってはダメなのだ。どんな偉大な師もこれだけは介入できない。あくまで、個人的体験の中にしかないのだ。いや「真理」とは、研究活動に限らず、究極的には全てそういうものだろう。

 

 

私は最初に「疑問」を抱いてから、「生涯テーマ」に出会うのに20年以上かかっている。途中で病気したり、色々あったので、人よりずっと多くの時間を費やしたと思う。

たぶんもう間に合ってないし、大した業績も残せないだろう。

 

それでも、残りの研究人生を自分の「生涯テーマ」を持って臨めることに、やっぱりとても幸せに感じる。

 

 

 

私は、「境界」が好きだ。