一事が万事。
小さなことのようで、そこに全てが集約されていると言っても過言ではない行動。
「一事が万事」
そういうのは、実際ある。
・わかって使ってる?––– enter押せばでる。わからなくてもいい。
・自分で考えて?––– 教えてもらえればいい。
・背景わかってないんじゃ?––– 体裁さえ整えばいい。
まだまだいくらでもあるだろう...そこを誤魔化すということは、全て誤魔化してるに等しい。そういう「一時」。
決めつけではないか?少し傲慢ではないか?
・・・確かに。そうかもしれない。
ただ、経験でわかるのだ。迷ってきたからこそわかるのだ。
自分自身がやっていて、ここは省略できるorいい意味で手を抜ける、という部分と、
逆に、ここで手を抜くと全てがガタガタになるな、という点。
あんな小ささなことで、という人もいるだろう。
しかし違う、
あすこで手を抜く人は、信用できない。
プロフェッショナルな世界では、多くの人がこの感覚を持っている。
かつて、某STAP細胞事件の時、某小保方氏の実験ノートの一部が公開されたことがあった。
あれを見ただけで、実験してきた人なら、「この人のデータは信用できない」と一瞬でわかる。
それでなくとも、卒論だか博論の画像データを横流しして使った、というのも、実に象徴的な「一事が万事」な案件だ。
こういうのは、
結構いろんな職種で、いろんなシーンで、あることだろうと思う。
先日、
ひどい発表を聞いた。
本来なら、発表してはいけないレベルのものだった。
研究でもなんでもない、お遊びだ。
言われた通りに手を動かした
それ自体はよくあるが。それ以上にひどかったのが、
その意味を何にもわかってないで手を動かしてることに臆することもなく、それどころか、えっとーなんて言ったらいいのかー、とかヘラヘラしながら、自分がわかってないことをまともに自覚さえせず、適当に誤魔化しまくった点だった。
これだけで、
この人が研究者に不向きであること、サイエンスに対して不誠実であること、自身の無知に向き合えない伸び代のない人であることを、
十二分に露呈していた。
なぜそんな決めつけられるのか?
それは、
ここを誤魔化したら、魂を売り渡すに等しいよ!
という点を誤魔化してるから。
それは、
必死に格闘してる人間ならわかること。
誰しも、全てをきめ細かく神経質に取り組むことはできないからこそ、
ここは誤魔化せないよね、
というものを、自然と身につけている。
別に勘とか、何か神がかった技術習得が必要なわけではない。
それは非常にシンプルな話で
論理的かどうか、まっとうなプロセスをちゃんと踏んでるかどうか、自分に正直であるかどうか、
それだけの話である。人間的な信頼性に近い話である。
こんなのはいちいち説明する必要もない。
考えればわかることである。
逆にだからこそ、ちゃんと考えてる?という判断材料になってるのかもしれない。
人としての器が試されてるのに、
なぜそこで誤魔化せるのか?
そういうものを、経験上私たちは、「一事が万事」と呼ぶのではないだろうか。
全てをちゃんとするのは不可能だからこそ。
大事にしたい「一事」。
ここを妥協したらプロじゃないとこだったり
人付き合いの上で最低限の礼儀だったり
何かとても面倒臭い神経質なことを言ってるようだけど
逆にいうと
ここをしっかり押さえておけば、他は力を抜けるところがけっこうある、
というバランスの話でもある。
ここを共有できてる間柄だと、つまらない重箱の隅を突き合うようなこともしないし。
仕事仲間としては、建設的な関係になれたりするものなのだけど。。。
「一事が万事」の罠にかかる人は、
大抵、自分しか見ていないタイプ。
自分を誤魔化してる中で、他人の目も誤魔化そうとしている。
そういうのが露呈してるだけだと思う。
また本人は悪気がないので、露呈してしまっことにさえ気づいてないのが常のようで。
そこは単純に面白いな、て思う。
はたから見てると、ちょっとね。